Ⅵ 桜花
衣擦れの音が、遠くで打ち寄せる波の音と重なる。
「もっと、近くに」
几帳越しの母の声は、微かに震えていた。
「聖寺へ、向かいます」
跪きそう告げた彼女の一人息子。
「そうか……。儀式の、時が」
差し込む朝日だけでは母の表情は見えず、然れども葵(まこと)にはしっかりと彼女の感情が読み取れた。
女帝としての期待、母としての不安。緊張と、誇り。走り、消える。
「武運を」
それらを呑み込み、放たれた言葉。
沙羅(シャール)妃国沙羅城本丸、女帝が統べるこの国の、一番高い位置にある女帝の間で、後継者沙羅葵は旅の装束に身を包み、出発前の報告をしていた。
千年に一度、三つの海と国の中心に位置する聖寺で行われる儀式。蓮世(レゼーヌ)王国に伝わる氷冠(フローズンティアラ)と印を頂いた生贄がもたらす、絶大な利益を狙うのは、各国の後継者。
「必ず、この国に勝利を」
母上に、栄光を。
出来得る限りの確信と、誠意を込めて再度深く跪く。鼻腔を通り抜ける、祖国の香り。
「失礼致します」
立ち上がる葵の後ろで、襖が静かに開かれる。女帝の口から、母の言葉がこぼれた。
「そなたは……わたくしの、誠(まこと)なのですからね」
帰ってきなさい。
その一言だけで、確信が芽生えるのだ。
「承知」
静かに閉じられた襖の向こう、几帳の陰で流れた涙。
彼女はそっと拭って、その日の職務に戻った。
焚き染められた桜の残り香が、強い磯の香りに消えていく。
高く結った黒髪を潮風になびかせ、船の上葵は欄干にもたれ水平線を見つめていた。
軋んだ音を立て大きく呼吸するように揺れる船。
濃紺の帯に挿された刀が、欄干に押し返される。
かつては父のであったその大刀は、十六の時授けられたもの。
彼は十年前、城を去った。
囚われた娘を助けに、一人で。
(鈴(リン)……)
腹違いの妹は、父の面影をそっくり受け継いでいた。ただ一つ違うのは、その瞳。
『気持ち悪い。紫の瞳、誰に似たのかしら』
紫紺の瞳に溢れる涙を、何度見ただろう。
『葵様、母上様がお呼びでございますよ』
葵様は、母上様によく似ていらっしゃる、と囁く家臣ら。
『鈴様は、李蘭(リラン)帝国の……』
不義の子。
父上が、女と。
紫の瞳を持つ、蛮人と。
『そなたは、私の誠なのだよ、葵』
「母上……」
何故。
『鈴様が蓮世の捕虜に!』
『だから、何だ? ……助けに行く気かい?』
何故。
『正当後継者は、沙羅葵。わたくしの息子に』
『葵、この刀は、お前のものだ。沙羅の国を支える、柱なのだよ』
何故。
飛んできた塩辛い飛沫が目に入り、視界が歪む。
(敵(かたき)は、誰だ)
父上を、惑わしたのは。
母上を、苦しめるのは。
(李蘭(リラン)……)
甦る、紫の瞳。
無意識のうちに刀へと手をかけていた己に気付き、大きく息を吐く。
向かうは、聖寺。海に浮かぶ孤島には、小さな集落があるのだという。
儀式に参加するのは、後継者の証である“鍵”を持った三人。一人は生贄に、残る二人は……
「この刀に賭けて。必ずや、我が願いを」
脳裏に揺らめく、紫の光。
深い海の色をした美しい鍵が、葵の手の中で煌めいた。
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